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文学フリマに参加した。

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さる五月二十三日に蒲田で文学フリマが開催され、不肖私も参加してきました。抽選に当たったらやってみよう的に見切り発車。蓋を開けたら申込全サークルが参加可能と。うわー、準備しなくちゃ、と慌てふためく私。
ブースのこっち側なんて何年ぶりだ。
有志(といっても二人だけど)による小説をまとめて三十頁の冊子を作りました。完全家内制手工業。プリンタもこれを期に買い換えた。
出来たのが写真のものです。
「つらら」という名前はサークル紹介文にも書いたように、何の役にも立たない、読み終わっても何も残らない、をテーマにつけたもの。深い意味は皆無。
内容は三分の二以上が不条理日常ゾンビ小説(小角高樹)。残りが「すこしふしぎな」新井素子風2短編(鹿野菓子)。
当日はお手伝いに駆けつけてくれたT氏(数年ぶりに再会)とともに三十路も半ばの男二人で売り子です。
表紙が予想以上にかわいらしくなったため、表紙を見て手に取る人、特に女性が多かったように思えた。が、パラパラめくるとそこにあるのはゾンビ小説。たぶん爽やかで綺麗でキュートな小説が載ってればよかったのかもしれない。しかしそこにはゾンビ小説。血です。死闘です。臭いです。
中身を見て置かれるのはこういうイベントの常なのだが、今回ばかりはどうも作戦を違えた気配濃厚。自分との戦いに負けてるだけという気もしなくはないが、急いで「ゾンビ小説です」とか「グロいです」とか申し訳程度に紙に書いておく。さらにおまけの手製栞をチラ見せして販促活動に勤しむ。せこいです。ま、こんな不熱心な輩ですが、色々勉強になりました。
それでも購入してくれた方々がいました。中には、私ゾンビ好きなんです、と言った女性もいました。もしも楽しんでもらえたら幸いです。
新聞社の取材もいたけど、活字離れが進んでいる昨今だが的な論調で記事にするつもりなのかね、などと毒づきながら眺めたり。
手作りするのはもともと好きだから作業も楽しかった。閑古鳥がなくブースでまったり座ってるのもね。

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『96時間』 ピエール・モレル [映画]


96時間 [DVD]

96時間 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD



この映画を見始めてしばらくの間、私はずっと恐怖を感じていた。
だがその恐怖は、人身売買組織のあまりにも手際の良いシステマティックな手口や廃人となった娘たちの姿に感じたものでも、リーアム父さんがバッタバッタと敵をなぎ倒していく鬼気迫る姿に感じたものでもない。
つまり、これが全部リーアム父さんの妄想なのではないか、映画のラストでリーアム父さんがこの妄想から目覚めてしまうのではないか、という恐怖だ。目覚めて冴えない現実に戻されてしまうのではないか、という。
それほどまでに、この物語は「娘を持つ父親」の描く妄想の型に忠実だった。残念ながら「娘を持つ父親」は多かれ少なかれこのような妄想に溺れているものだ。
自分の娘が外で遊んでいてボールを追って道路に飛び出したら自動車に轢かれやしないか、娘が歩道を歩いている時に居眠り運転のトラックが突っ込んできやしないか、娘が通う学校に凶器を持った変質者が乱入してきて被害に遭わないか。
これがエスカレートすると、娘が地震や雷や火事などの災害に遭遇した時に守ってやれるか、娘と自分が飛行機に乗っている時にハイジャックされたらどうするか、娘が誘拐されて身代金を要求されて通報したら命はないと脅されたらどうするか、娘が崖から落ちそうになった所を手をつかんで引っぱりあげられるだろうか、娘が宇宙からやってきた異星人のUFOに浚われたらどうやって救出しようか、などと考えはじめる。ほとんど妄想の世界だ。
そして最も肝心なところだが、このシミュレーションの中では父親は必ず娘を助け出すものと決まっているのである。そこまで保証されるからこそ安心して妄想に浸ることができるのである。「娘を持つ父親」という人種はそういうものである。リーアム父さんのいささか神経質にも思える心配性はごく当たり前のことであり、決してうざったいものやしつこいものや愛情の押しつけなどといった「キモい」ものでは断じてないのである。
それでいくと、この映画はいわば「娘が初めての海外旅行で人身売買組織に浚われ、4日以内に助けないと永遠に戻ってこない」という難易度の高い設定を妄想しているともいえる。彼が無敵なのも、さしあたって全て妄想だと思えば不思議なことはない。
まず娘の歌手という夢を「自分だけがそれを理解し協力している」という風に思い込むリーアム父さんが痛すぎ切なすぎ涙なしには見られない。女性歌手のガードを引受けるのも娘に尊敬されたい一心でしかない。彼にとって冷静な分析と予測はお手のものだ。仕事の前日には様々なシミュレーションをし終えていたと思われる。暴漢に襲われそうになるところを助けてそのお礼をされるのも、きっと想定の範囲内だったのだろう。成功者にアドバイスを求めるのも予定どおりの行動だったに違いない。そして旅行に行くという話を聞いた瞬間に断固拒否しつつも、すでに彼の脳裏にはありとあらゆるシナリオが浮かび、いかなる状況にも対処できるようなシミュレーションが行われていたに違いない。だからあれほどまでに迅速に冷静に娘へ指示を送れたのだ。
こうして私は冒頭20分の時点で恐怖を感じつつも、すでに彼の友人になれると思い込んだ。
元妻は「彼女を自由にさせないと離れていってしまう」などとしたり顔で彼をたしなめる。反論できずにいたリーアム父さんは、しかしやがて、俺のいうことが一番正しく娘への愛も本物なのだ、といわんばかりの救出劇を繰り広げる。娘の命を脅かす者はたとえどんな理由であろうと倒すほかはない。それを潔さというのは少々はばかられるが、父親が娘を助けるのは正義でも理屈でも見返りを期待するのでも何でもない。それは至極当たり前のことなのだ、と戦う彼の姿が表明している。だからそれを邪魔する者は等しく娘を殺そうとする者なのだ、と。昔の友人?の妻?ーーむしろ子供に手をかけなかったのは彼の信念だと思うべきだろう。ビジネス?交渉?ーー「だが容赦はしない」、ズドン、である。かっちょええ。
世界中に溢れかえっている「間に合わなかったもの」「手遅れだったもの」「もう届かないもの」の哀しみを一身に背負い、全てを間に合わせ、引きずり戻し、救い出す。リーアム父さんがやったことはそれだけだ。たったそれだけのことが今この世界にはこれほどまでに足りていないのだろうか。
「お父さんは心配症」といえばそのとおりだ。電気屋に20回も通って吟味した誕生日プレゼントのカラオケセットを買うところから、彼の無限大の心配はすでに炸裂している。神経質なほど娘に電話連絡を強要するのもそうだし、組織の手に落ちる寸前のいたって冷静な指示も同じ水準にある。表面が異なるだけで、リーアム父さんのテンションはほぼ変わらずハイに保たれている。心配症も暴力も等しくハイテンション。そして娘が素で、つまり父さんがいない場所で「父さんに言ってない」と友人に訴える場面こそが、それまでの父の独善的だったハイテンションが観客のものとして共有された瞬間である。ハートがズキュウウウウウン、なのである。それでみんながみんな、そろいもそろって怒濤の救出劇へと出発したのである。
だからこそ私は最後に歌手の名刺を父さんがその手で破り捨ててしまうものだと予想していた。しかし、その予想は見事に外れた。最後に名刺を破り捨てることで「まともな」現実に回帰させるだろうという私の浅はかな予測は外れた。それどころか危険が満載で苦しみの多いはずの歌手の道へと娘を導いてしまった。なぜか?
これを単純にやっぱり親バカだった、というのは容易い。娘の本気だって疑わしいものだからだ。しかし彼が名実ともに娘の父親だった時代が彼にとっての真実の時であったとすれば(自分の仕事は秘密だったのに)、その頃の娘の夢こそが彼にとって本当の夢に他ならないのである。その夢を叶えてあげることが彼の望みだった。それだけだ。
「娘だけいればいい」と宣う父親の言葉はつまり裏返せば「そばにはいつも俺がいる」ということである。彼がいれば娘が完璧に安全だというのは今回実証された。娘が一度は夢見た可能性を切り開き、それを守り続ける父親という存在。父親であれば当然そうするものだ、ということを証明するのにこれほどまでの遠回りと破壊と殺戮を行わなければならなかったのだ。
最後の最後までリーアム父さんは美化された妄想からくだらない現実世界への着地を拒んだ。そんな「まともな」現実は望んじゃいない。そして完全に「望みどおりの」現実を手に入れた。それは妄想を徹底して突き通すことで逆説的に妄想世界を現実世界へと(力技で)置き換えてしまったかのように思える。彼の妄想は彼の拳と同義であり、妄想、拳、銃、妄想、点滴、宣戦布告、妄想、拳、銃、妄想、と連打して、この映画のありえない妄想をボコボコにすることで、あるべき形に変形させて「望みどおりの」現実に着地し幕を閉じたのだ。
そうだ、リーアム父さんは妄想世界を完全に我がものにーー「俺の現実」にしてしまったのだ、あの徒手空拳ひとつで。有無をいわせず。
ここで私はこの感覚が何かに似ていることに気づいた。なんだっけ、この誰にもできないことをずばずばやってのけて、通った後には何も残らないっていうのは。
しばらくたって思い出した。ーーこれは、うえけんの「さわやか君」だ。
誰もが口には出さないが、心の底では思っていることをずばずばとさわやかに真実の言葉を吐き出しながら状況を破壊して去っていく「さわやか君」なのだ。リーアム父さんの場合、武器は言葉ではなくて暴力だが、その破壊力は同等だ。むしろ剥き出しの言葉が生々しい現実を暴くのと同じ破壊力を視覚化・映像化したものだと言った方が近いかもしれない。彼の後には跡形もなく、何も残らない。
「さわやか君」に憧れる人々の目はきらきらと輝いている。リーアム父さんに憧れる私の目もまたきっときらきら輝いている。そこまで自覚して、わーははと笑って映画館を出るのが正解なのかもしれない。

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『Dr.パルナサスの鏡』 テリー・ギリアム [映画]

バンデットQ、ブラジル、バロン、フィッシャーキング、12モンキーズラスベガスをやっつけろ、ローズ・イン・タイドランド。
牽強付会なのは承知の上で、どれにも共通しているのは、自分の見ている世界が誰かの夢かもしれないということ、あるいは誰かの夢の中に自分が生きているかもしれない、という存在の危機感というやつなのかもしれない。その挟間に何かの拍子ではまりこんでしまった人々が右往左往する。気付かなければ疑問を抱かずに生きていけたのに、疑問を抱いたばっかりに不幸へと転落する。結局どちらにも帰属できずにとりのこされる。だから、どの映画も終盤にむかって股の辺りがぞわぞわするような不安をあおる。かと思うと、そんな不安を笑い飛ばすような唐突なギャグが「ごきげんよう」とばかりにどーんと降りかかる。
この新作もまた、ある意味こうした存在や世界への感傷とナンセンスなギャグと不条理を混ぜ合わせたものといえば、そうかもしれない。
しかしこの映画は不幸である。主演男優の不慮の死が、という意味ではない。むしろヒース・レジャーの死はこの映画にとって酷い宣伝以上の効果はなかった。これは不幸である。さらに代役の俳優たちがそろって人気者だったということ、これらも酷い宣伝以上の効果はない。一本の映画にとって中身以外の部分で喧伝されることは、それがどんな内容のことであれ不幸だといわざるを得ない。たとえば「映像の魔術」とか「想像力の復権」とか、あまり頭を使わずに使用されるこうした文句。おそらくこれまでギリアムの映画を一度も見たことのない観客がこの文句から期待し想像するものと、実際の映像はこれっぽっちも重ならないだろう。そして「想像力の復権」は押し付けがましく感じられることだろう。耳に聞こえが良いこうした文句や豪華俳優陣、スキャンダラスな製作過程・・・あまりに不幸な状況である。これこそ、まるでギリアム自身の作り出す世界のような寒々しくて、薄っぺらで、静寂に満ちた滑稽な状況である。
もう一つ不幸なことがある。もしかしたらギリアムは映画そのものよりも目の前の状況にこだわってしまったのかもしれない。つまりヒースの映像を生かそう生かそうとするあまり映画としてはヒースを殺してしまっているように思えるのだ。そして映画そのものもそちらに引っ張られてしまい、結果、全体のバランスを欠いてしまったのだろうか。悪く言ってしまえば、遺されたものを映画のためにばっさりと切り捨てることが出来なかった、という風に見えてしまう。もしもヒースが生きていたら・・・というのは反則だけれども、ヒース・レジャーが一人でやりきった映画を見てみたかったと思うのは無い物ねだりだろうか。それはどうしてもヒースの演技が見たかった、という意味では当然なくて、あるはずだった映画、無事にできあがるはずだった『The Imaginarium of Doctor parnassus』という映画を見たかったということだ。だから、これがヒース・レジャーという希有な俳優が最後に出演したアレね、というような言われ方をされないことを祈る。ただし、ヒースの演技は風格のある素晴らしいものだったことは保証したい。

怪しげな興行をうっているが見向きもされない馬車の一行が、ある一人の吊るされた男と出会う。悪魔との契約で娘を引き渡す前に5人の人間を鏡の世界に導かなくてはならない。一行は吊るされた男の尽力で賭けに勝ちそうに見えたが、実は男には秘密があった・・・
・・・みたいなチラシにあるようなストーリーそのままでいいから、あとは別世界の鏡の中の世界をナンセンスさを切って貼ってつなげるだけで傑作になったのではないか(うだうだとああでもない、こうでもない、と痴話げんかめいた場面を延々と見せられるのは流石に辟易した)。
『バロン』がまさにそういう映画だったと思う。意味がありそうでほとんど無い世界をいくつも貼付けてつなげて、そしてそれらが舞台を通じて現実と虚構のはざまを行き来する。それこそ「想像力の復権」を押し付けることなく軽々と体現している映画だった。
大体、「想像力」が「復権」を唱えることくらい胡散臭いことはない。想像力なんて所詮、個々人の持つものでしかない。他人の想像力を無批判に受け入れることが、どれほど悲惨な事態を引き起こしてきたのかは例を挙げるまでもないだろう。多かれ少なかれ世界は想像力の覇権争いで成り立っている。これが私の世界だ、というヒースの台詞も象徴的だ。そう宣言する時の彼はまさに想像力によって娘を征服しようとしていたではないか。それが諸刃の剣だということもギリアムは重々承知だ。ヒースの世界に従えば、地位と名誉と財産が手に入る。なんという分かりやすい教訓。それに従わなかった娘は最終的に自身の想像世界を選択する。それとてインテリアカタログの中のもの、小市民的なこじんまりとした幸せな家庭でしかないが、彼女はこれに満足しているようだ。しかしこれは「自分の想像力を自分で選んだ」だけのあくまで想定の範囲内での満足であり、いくばくかの皮肉も感じられる。この結末は一見ハッピーエンドに見えるが、とてつもなく絶望的にも思える。
娘が小さいながらも幸福な家庭を手に入れることや、パルナサス博士の舞台興行が最終的に(莫迦みたいに笑える)紙芝居になってしまうことは、個々人のもつ想像力が時代とともに卑小に幼稚に貧相になっていく、という風に解釈するべきものなのだろうか。想像力は紙芝居で表現するくらいの些細なものでしかない、と?あるいは、これは結局縛り首になる男が死の直前に見た夢の話だったのかもしれない。もしかしたら想像力というやつは、それくらいのものにしておいた方が良いのだろうか。マッチ売りの少女のように悲惨な現実を隠蔽するためのささやかな愉しみとして?まさか。だとしたら『バロン』よりも縮小しているよ。博士と悪魔のように不毛な砂漠で馴れ合って茶飲み話をしている場合じゃない。その先へ進もうとするのが想像力の復権じゃないの。

冒頭のパルナサスの馬車が変化して舞台が現れてくる場面は悶絶。あの下から見上げているような構図ね。あれだけで満足した。舞台の構成というか配置は完璧。素晴らしい。ただの動きのない画面なんだけど、あれこそ想像力を刺激する。馬車の中は居心地がよさそう。二階建てバスみたい。あれならずっと旅をしながら住んでもいい。
逆に鏡の中の世界は、最初の書割りの森などはよかったけど、総天然色の背景は格別に独特というわけではない。気球とかはしごとか手作り感のあるものはチープに扱われてて好ましい。ポリスマンのダンスはくだらなさすぎて笑えた。あれが風刺のつもりなら笑えないけど。
ギリアム映画にしては珍しく導入が親切すぎてかえって気持ち悪い。あんなに世界の設定説明に終始しているとは思わなかった。と思うと、終盤はやや突っ走りすぎ暴走ぎみだし。全体のバランスはあまり良くない。鏡の世界で顔が変わるのはやっぱりどう考えてもこじつけ。とってつけた部分が見えすぎてしまう。そのせいか、場面場面のつながりも切って貼って、が目に付いたように思う。
なんて言い始めると色々あるのだけど、この映画は、もうこっち方面には来ないのかと思っていた私にとっては嬉しい復活だった。準備中のドン・キホーテ物ではさらに突き抜けて欲しいと願う。ドン・キホーテ役も決まったという噂だしね。結局わくわく期待してしまうというのは・・・これがつまり義務とか納税ってことなのだろうか。
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『人情紙風船』山中貞雄 [映画]




28歳の遺作となった映画である。だが、この映画を見るのにそんな知識はいらない。
素晴らしく安定した構図の画面と、左右に調和が取れた人間の動き。建造物と河岸のレイアウトと奥行き。その美しく端正なたたずまい。明らかに舞台に敬意と対抗意識を持って映画でしか描けない画面を作ろうという野心に満ちている。舞台の袖から誰かが出てきて、反対の袖へ誰かが消えていく。あるいは挑戦的なまでに奥から全面まで走ってくる人物がいる。画面の快楽というものを確信している。目線の低さもまたかぶりつきだと思えば、この上なく贅沢なものだ。これは誰もが最高の席で同じ場面を見ることができる魔法の光でできた映画というわけだ。観客はその幸福の画面を飽きることなく眺めるだけで良い。このうえなくまぎれもない至福の瞬間に浸れる。
物語は雨上がりの快晴の日から始まり、雨の日と晴れの日を繰り返して、また快晴の朝を迎えて終わる。暗い室内からまぶしいばかりの屋外へ印象的に切り替わる。3つほどの人情劇がゆるやかに絡み合い、ほぼ同時に結論が出される。その幕切れの切れの鮮やかさがかえって不穏な空気を残すことになる。
紙風船が画面の端に映る、その軽妙さとはかなさ。野暮ったい男との対比。粋な男との類似。かけおちへの希望。命のメタファー。そんな風にいかようにも仮託することができる。また仮託しなくとも紙風船が画面にある間は重苦しさはいっとき解放されている。と同時に、壊れやすいものとしての脆さが充満している。この目に見えない空気の動きは最後に町の人々の生活に欠かせない川に、その輝きに飲み込まれる。
こうやって、動かないものと、動くものが同時になにがしかの見ることの喜びを与えてくれる。
これはそういう美しい映画である。
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『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』クリストファー・ノーラン [映画]

さてさて。我が家にPS3がやってきたので、ブルーレイも観られるようになった。そこで前もって購入してあった『ダークナイト』をそのこけら落としにしたのであった。

バットマン ビギンズ [DVD]

バットマン ビギンズ [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD


まずは『ビギンズ』をおさらい。
バットマンはなぜゴッサムシティの治安を守り続けるのか?
バットマンはなぜ最新の科学兵器を駆使するのか?
バットマンはなぜそもそもコウモリなのか?
漫画の世界とくにアメコミヒーローにとってこれらの「なぜ?」はとるにたらない疑問である。
ブルース・ウェインは両親を街に巣食う悪党に惨殺されたから悪と戦うのである。
ブルース・ウェインはお金持ちの御曹子だからさまざまな兵器を開発し実用化できるのである。
ブルース・ウェインはコウモリにトラウマがあるからこそそれを克服し己の力の象徴としたのである。
これだけで十分な説明になる。
しかしこれを現実世界に置き換える時には、さまざまな嘘臭さを乗り越えなければならなかった。
両親を殺された人間が悪と直接戦うなどということはほとんど無い。
いくらお金持ちだろうと兵器を開発する技術も知識も無い。
コウモリに至ってはおふざけにしか思えない。まともじゃない。
ノーランの『ビギンズ』ではこうした、バットマンに関する「なぜ?」に逐一回答を与えていた。ウェイン産業の応用科学部から洞窟の歴史的な由来まで事細かにそれなりの理屈によって「ありそう」な水準で設定を作り込んできたのである。
さらにブルース・ウェインという人間が形成されるまでのパーソナルヒストリーをもほぼ物語の大半を費やしてコンパクトに語っている。それは漫画のページをパラパラめくって読み進める感じにも似て、ブルースがどのように人間離れした身体能力と精神力を鍛えたのか、あるいはコウモリの恐怖をどのように克服したのかが切れの良い回想で語られる。そしてこれらの条件が整った時に初めて荒廃し堕落したゴッサムシティを救うためにバットマンという恐怖の象徴が生きてくることが、何重もの納得の上で観客に明らかにされるのである。
それからブルースは夢の実現に向かってアルフレッドやフォックスらの助けを得ながら、一人作業を黙々と行うのであった。ティム・バートンのバットマンの時も思ったが、この何不自由ないお坊ちゃまがしこしこと作業をする姿は途方もなく寂しい。寂しさと同時に私が思い出すのは子供の頃に遊んだ秘密基地のことだ。すべての少年に共通するこの秘密基地への憧憬がこの作業風景に凝縮されている。秘密の基地で悪と戦うために秘密兵器を作って準備している、このみじめで寂しげで、とても楽しげな場面。
そういうわけで『ビギンズ』は新シリーズの設定紹介と、そこから派生した事件の収束までを描いて終わることになる。この事件がまたアメコミ的(パルプSFちっく)なもので微笑ましい。水道に混ぜた毒ガス液をマイクロ波放射器で気化させて街中を混乱させるって、いつの時代の悪だくみなのか。いや好きだけどこういうの。
バットモービルにもバットシグナルにもやっぱりそれなりの存在意義が用意してあって不自然さを感じさせない。この映画の中で唯一不自然さを感じるのは、そのあまりにも理詰めな理路整然としすぎた過剰な世界観のありようだ。何もかも辻褄が合い、何もかも矛盾が生じないこの世界では、当然バットマンが夜を跋扈しようがビルの屋上をモービルが疾走しようがおかしくない。頭では分かるのだが、どこかで違和感があるのだ。たとえ理路整然としていてもおかしなものはおかしいのではないのか?と。
唯一ゴッサムのゴッサムらしさを体現していたモノレールーー貧富の別なく使われる均衡の象徴としてのモノレールは、その世界のありようからはみだしたことによって最後に破壊されてしまったとしか思えない。つまりそれは破壊と混乱の災厄がこれからこの街に降り掛かるという予見なのである。従って次作には出てこない。
その災厄とはいうまでもなくジョーカーだ。

ダークナイト [Blu-ray]

ダークナイト [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: Blu-ray


そして『ダークナイト』だ。IMAX用カメラで撮った画面がブルーレイで最高解像度を達成するというのに意味もなくわくわくした。画面すれすれまで近寄ってまじまじ見てしまった。き、綺麗だわ。
その綺麗な画面でこの超極悪な『ダークナイト』を見る幸せ。
冒頭からノンストップ。小悪党から大悪党まで入り乱れる。かと思えばはた迷惑な偽物バットマンや小悪党に成り下がったスケアクロウが小競り合い。バットマンが登場し建物を破壊して去っていく。ここまで善良な人々がいっさい出てこない。善良って何、といわんばかりだ。そこに光の騎士が登場し悪党たちを一網打尽にしようと試みる。バットマンも香港まで飛んで悪党を引っ張ってくるいつもの強引な手腕を振るう。実は新しい機械を試したかっただけなのでは、という疑惑。フォックスの狸ぶりも見ていて痛快である。
ところで前作に比べてクリスチャン・ベールの顔が悪人顔になったのではないか。何かこう、ダークサイドに堕ちたような険しさが感じられたのは気のせいだろうか。
前作で抱いた疑問ーー理路整然としていてもおかしなものはおかしいのではないか?という問いを、あたかも「その疑問は織り込み済みだ」とせせら笑うかのようにバットマンのレゾンデートルを脅かすジョーカーが鮮やかに登場する。とたんに世界は混沌と化す。ジョーカーの言の葉が織り成すあやうい空間に変化してしまうのであった。
かつてジャック・ニコルソンが演じたジョーカーのトリックスターぶりは最高だった。世界をおちょくり莫迦にしてけむに巻く。無邪気さのお化けだった。手のつけられない強大な力を持った幼稚な心。それはティム・バートンが作り上げた架空の都市ゴッサムシティにおいては無敵のパワーを誇っていた。当事者からしてみれば相手にしたくはないが、傍観するならこれほど面白い怪人もいない。
だがヒース・レジャーのジョーカーは傍観者にとっても相手にしたくない奴だった。(全くの余談だけどヒース・レジャーの英語の記事をネット上で訳したページを見るとledgerが「総勘定元帳」と訳されてしまうのはどうにかならないのか。)
以前のジョーカーを例えていうなら舞台上で(脚本どおり)ハチャメチャをやらかすヤンチャ野郎(の役)だとするならば、今回のジョーカーは客席まで飛び込んで(アドリブで)やりたい放題し尽くすのっぴきならないアナーキー野郎(ガチ)である。
彼の悪意はバットマンやゴッサムシティの住民たちのみに向けられているのではない。私たちにもその切っ先を喉元に突き付けているのだ。いや悪意じゃないな、彼の言葉は隠蔽されているある種の真実をえげつなく差し出しているのだ。それも究極の二択として。ジョーカーは常に二択を迫る。俺と組むのかバットマンにやられるのか、マスクを脱ぐのか市民を殺されるのか、恋人を助けるのか光の騎士を助けるのか、起爆装置を押して助かるか押されて死ぬか、悪に堕ちるのか正義を貫くのか。
トゥーフェイスのコインとジョーカーの二択は実は表裏一体だったのかもしれない。コインで決める行為は運で左右されるのではなく、実際はその行為自体が誰かに選択を委ねてしまうことに他ならないと暗に示している。ジョーカーはその上をいった。誰かが正しい選択をしてくれると人には思い込ませつつ、その実すべてはジョーカーの掌で弄ばれたのだ。
悲劇はジョーカーが直接下さないところで起きた。ジョーカーは悲劇への起爆装置を作ってその辺に置いておいただけだった。押したのは他の誰かだったのだ。だからこそ、最後に自分の手で爆破を試みた時には失敗することが運命づけられていたともいえる。
愚かさだ。ジョーカーは他人の愚かさを溺愛している。自分の存在意義を逡巡していたバットマンはそこにつけ込まれた。最愛の人間を永遠に失った。
だからバットマンは謎の自警団から犬に追われるならず者への転落を選んだのだ。ジョーカー不在の闇を一手に引き受けて、より深い闇へと消えていったのだ。

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『PLUTO』地上最大のロボットより(原作 手塚治虫) 浦沢直樹 [漫画]


PLUTO 8 (ビッグコミックス)

PLUTO 8 (ビッグコミックス)




来日したメビウス氏を招いてのシンポジウムで、浦沢氏がメビウス氏に対する憧れの気持ちや「僕が行き着きたいものはこれだ!」という思いの丈を語っていた。浦沢氏が熱く語る気持ちはよく分かる。私もメビウスの絵に痺れて同じ憧れを抱いたし、やはり「僕が描きたいものはこれだ!」とかつて感じたものだ(でも描けずに終わる)。
浦沢氏が鉄腕アトムをリメイクするらしい、と聞いた時は正直いってあまり期待しなかった。ところが、ベースになるのが「地上最大のロボット」であると聞いた時にはとても興奮したし、同時にものすごい嫉妬を感じた。いやだって「地上最大のロボット」だよ?しかも浦沢氏はこれをアトムのエピソードの中で最も好きなものであり、これを読んで漫画家になろうと思った、などというのである。むろん、私だって「地上最大のロボット」がアトムの中で一番好きだったし、どれかリメイクして良いといわれれば必ずこれを挙げると思う。だから「ずるーい!」という気持ちでいっぱいになったわけだ。
ここで私がいいたいのは、あの浦沢直樹と考えることが一緒だ、などというくだらないことでは勿論なくて、同じように考えている漫画読者はごまんといるだろうな、という当たり前の事実である。そしてそのごまんといる人々は絶対に他人のリメイクを許容しないだろうということも。だって手塚を超えられるわけがないんだから。正確に言おう。超えられるなんて考えられないからだ。それは奇しくも浦沢氏がメビウス氏に対して「(メビウス氏がいる限り同じようなものを)僕が描く必要がない」と発言したのと同じ理由による。
しかし、浦沢直樹は健闘した。オマージュを捧げリスペクトしつつも、決しておもねらないスリリングな漫画を僕らに読ませてくれた。『PLUTO』は素晴らしい漫画だと思う。完結したので改めて一気読みしたら、やはり凄かった。その気持ちには一点の曇りもない。「地上最大のロボット」というモチーフを得て、浦沢漫画の最良の部分が生み出されたともいえよう。

だが、やはりわずかな不満は残る。これはもう仕方がないことだと思う。誰が何をやっても必ず文句は出る。諦めて戯言だと思ってほしい。私が抱いたのは一つだけだ。それも特殊な個人の好みの話だ。つまりロボットの破壊場面である。
手塚版「地上最大のロボット」で何が一番魅力的だったかといえば、世界最強を自認する各国ロボットたちがプルートゥによって見るも無惨な粉々の姿に破壊される場面にあった。俺こそが世界一だと自信過剰ぎみなロボットが一撃で粉砕されてしまう。そしてその場面を惜し気もなく描いたのが手塚だった。以前も書いたが、私は手塚漫画の中で何かが破壊される場面でどうしてもエロティックな印象を受けてしまう。手塚が意外にも機械音痴だった、機械が描けていないというのは有名な話だが、死ぬ寸前まで自分が破壊されるはずがないと考えている7体の最強ロボットが一コマでバラバラにされてしまう場面の魅力は筆舌に尽くしがたい。一言でいえばナンセンスさだ。途方もないくらいの無意味さがあるのだ。
特にゲジヒトだ。特殊なゼロニウム合金の体を持ち電磁波攻撃にびくともしない彼が笑いながらまっぷたつにされるのが7体の中で一番記憶に残る最高の場面だった。だから浦沢版でゲジヒトを主役に据えたのはものすごく真っ当だと思う。
とにかく手塚版で魅力的だった破壊場面を浦沢版でどのように描くのか、というのは私の一番期待していたところだった。しかし冒頭のモンブランに始まって、ノース2号、ブランドーまで来て、私はあれ?と思った。どうも直接的な破壊場面をあえて避けているように感じたからだ(とはいえ非常に浦沢漫画的演出なのだが)。ヘラクレスはどうだ、と思ったがヘラクレスにもなかった。なもので私はこう考えた。そうか、これはきっと最後の最後、クライマックスあたりでプルートゥの回想でその直接的な破壊場面を描き尽くす演出の伏線なんだな、と。そう考えるとすべてつじつまが合うので、私はひたすらそれを楽しみに連載を追っていた。ところがエプシロンの破壊場面は、控えめだがその控えめなところが身震いするほど残酷な描写となっていて素晴らしかった。あれ?エプシロンは描いちゃうの?その後はみなさんご承知の通りの展開で結末へなだれ込む。結局ロボットの破壊回想場面はなかった。
浦沢直樹(と長崎尚志)は手塚版のボラーの謎をお得意のサスペンス仕立てに深化させて一流のドラマにした。そもそも手塚にとって謎とき自体の思想が後付けのものでしかないように思える。そこを逆手に得意分野に持ってきたのだろう。そして破壊場面は「同じ方向性ならば僕が描く必要がない」と思って控えたのだろうか。でも私は浦沢直樹の破壊場面を見てみたかった。それは浦沢がたぶん最も描き辛いものだろうからこそ、見てみたかった。それだけだ。

この漫画は予想以上に原作に忠実なつくりになっており、いくらかの肉付けと設定の現代化を図っているが極端な逸脱が無いので原作愛読者にとっても反発を感じる部分はほとんどない。手塚の作り上げた世界を結末を思想を、ある程度まで精緻化させ理屈を付け今この時点でのありうべき未来像としてリニューアルさせることにかなり成功している。
手塚版の自信過剰な力自慢のロボットたちと違い、浦沢版のロボットたちは皆どこか戦うことに哀しみを抱いて飛び立っていき、そして散っていった。まるで最初から死ぬことを知っていたかのように。それはすなわち何のために戦うのか分からないが戦わなければならないことを悟った者の哀しみだ。世界あるいは自分の国のために大きな戦争に参加して、結果大きなトラウマを抱えた彼らが再び戦争に赴く時にその拠り所となるのは自分達の小さな家族だけだった。そしてその戦う相手もまた大きな偏った悲しみという大義名分を抱えていたのが明らかにされる。しかしその大義名分は空虚なもの、人工的に注入された怒りであった。繰り返される怒りと悲しみの負の連鎖に翻弄され続けるこの世界において注入される偏った悲しみと怒り。それを自覚した上で疑問と哀しみを抱きながらも戦う者もいる。ちっぽけだが守るべきもののために大きなものを背負わされた者たちだ。それがロボットに託されているというこの漫画の隠喩の真の意味を私はもう一度考えてみようと思う。
その無意味さの象徴としてやはり破壊場面を見たかった、というのは高望みだろうか。

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『ダニーボーイ』島田虎之介 [漫画]

米ブロードウェイで活躍した一人の伝説的日本人俳優、伊藤幸男のたどった人生の軌跡を多くの人々の記憶を回想する形で描き出した漫画、とひとまず書いておこう。
その回想形式も一筋縄ではいかなくて、5000人を取り上げた助産師の引退パーティで会場に流れたBGMから思い出す「今までで一番大きなうぶ声」や、社史編纂の資料を提供するために引っ張り出したアルバムの中の一枚の写真から思い出される歌、小学校教師のあいまいな記憶の中の合唱コンクールで転校生が歌った素晴らしい独唱のこと、等々、それぞれゆるやかに繋がっているのかいないのか定かでない異なる場所、時間に生きている人々がそれぞれのやり方で回想するのだった。
このいくらか雑駁な感じで点描される人々の回想は、伊藤幸男の人生を時系列に沿って追い続ける。しかし最後にはこの雑駁さが、記憶に残る歌ーー「僕が歌ったあの歌」「いつものように歌った」歌がこの世界のあちこちに様々な形で残り、忘れられ、または時に思い出されてきたのかを、まざまざと浮かび上がらせることになる。伊藤自身も忘れてしまった歌がこの世界にどのように響き、散らばり、消え、残っていったのか。
そう、これは回想形式で一人の伝説的日本人俳優の人生を浮かび上がらせた漫画ではなかった。この漫画は、伊藤幸男の記憶を持つ無数の人々の人生を伊藤と対等に浮かび上がらせているのだ。決して不運な俳優人生と非業の死を迎えた伊藤幸男が主人公なのではない。第一話と最終話で閉じられる伊藤の最後の姿(それすら伊藤自身なのかはっきりと明示はされていない)、厳密にいえば無線から響き渡る歌声はまた、間に挿まれた六つの人生の根底に流れる歌声である。しかし、この歌声を永い時間をかけて記憶の結晶として美しく結実させ沈澱させたのはそれぞれの人生を生きる「彼女たち」だった。幸男の生の円環は閉じてしまったが、彼女たちの円環は未だ閉じていない。あぶくのように交わり必ず消え去る運命のこの円環は、誰もが描きつつあるものであり、そこには差別はない(幸不幸はあるかもしれない)。この差別のなさは一見無慈悲なものであるのだけど、こうして幾つかの記憶を奇跡のように結び付けて見せられると究極的には慈悲深いものであるような気がしてくるから不思議だ。
最終話におけるこの統合と拡散のカタルシスは、これまでのシマトラ作品にも共通しているものだけれど、浮かんでは消える光芒のような一人一人の人生の交錯を目の前にして、私は一片の哀しみと一片の喜びを感じつつ深い満足を味わったのだった。



ダニー・ボーイ

ダニー・ボーイ



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ガンドッグゼロリプレイ『アゲインスト・ジェノサイド』岡和田晃 [本]




この方のブログをちょくちょく拝見しています。で、気になったので本屋さんで買ってきて読みました。
はーリプレイ読むのなんて何年ぶりだこと。ずず。
一読、うわーっというあまじょっぱい気分に包まれる。いやこの本が、でなくて自分自身が。
これは初めて書くが、実は私もかつて若かりし頃、TRPG者だった。といってもごく薄いはまり方だったのだが。もともと私はGBにはじまり、某W誌で育った人間である(イラスト投稿2回載った)。当然、テーブルトークもやりました。T&T(もうこの時点で薄くて貧乏)でGMやってました。冬の時代に離れてしまった者の一人な訳です。リプレイといえば仲間うちのセッションラジカセで録音して書き起こしてリプレイもどきをコピー同人誌(しかも鉛筆の手書きイラスト入り。ぐはあっ)にして楽しんでいたり、ライブRPGもどきのようなことを企画して遊んでいたこともある。それはそれは痛く楽しい過去を引きずる人間なのでした。みんなそうだったよね?
閑話休題。
冒頭の「では・・・始めよう」からもう自分の中で懐古モードに入ってしまう。始まる前のくっちゃべり状態からGMのこういう一言で皆で世界に入っていく緊張感と醍醐味を思い出す。
この本の世界は現実世界をもとにした架空の近未来を舞台にしている。ガンアクションを主眼に置いたプレイを行うためにデザインされたゲームなのだそうだ。
そういう背景の中、シビアなミッションをこなすPCたち。演じ分けの大変そうなNPCもたっくさん出てくる(そうそうNPCはたまにどれがどれだかキャラクターが混乱することがままあったことも思い出した。ひとえにマスタリングの力量不足なんだが、この本ではキャラ立ちまくっており素晴らしい)。なによりもPCに自由に人物像(出自、背景)を創造させて、それらも絡めつつPCがわりと自由に行動の選択をしても受け止めることができる懐の深さと広さに驚いた。これにはかなりの行動予測、ストーリーや世界観の設定、なにより参加者とのあうんの呼吸が必要なのだけれども、最後まで破綻せずにまとめあげたのは素直に賞賛。(それはもちろんPCの積極的なコミットに依るところも大きいのだけど。プレイヤーの方々の力量というのも賞賛したい。)
途中での新PC入場とかいろんな仕掛けもある。どれだけプレイヤーを驚かせたり喜ばせたり怒らせたりするかを考えるのってGMならではの愉しみなんだよねー。一発ネタに命がけ。ギミックきかせてなんぼ。プレーヤーもひそかに楽しみにしてたりね。予想の裏切りあい。最初から攻防が始まっているという。実はこの本で一番面白さを感じたのがこういう部分だった。物語を優先させるとこういう部分は省かれてしまいがちなのだが、きちんと書かれていて好印象だった。リワードポイントの自己申告などのやりとりも臨場感があった。能動的にプレイに参加している気配を感じるとGMは無条件に嬉しくなるもの。そのあたりの機微にもできるだけ心を砕いて公平に書かれていたと感じる。
これはガンドッグゼロに限らぬTRPGの面白さが那辺にあるのかを考え抜いて端々に滲ませつつも、物語の体をある強度まで鍛えることに力を注いだリプレイだと思う。
とはいえ私なぞが偉そうにこんな風に云ってしまうことに多少の後ろめたさがある。TRPGから離れてはや二十年近いのだから。でも、あれは確かに楽しかったよな、と思い出させてもらえたことに感謝。またやってみようかなって一瞬。
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『丹下左膳餘話 百萬両の壷』 山中貞雄 [映画]




十数年ぶりに見たが、いやー可笑しい。小さな笑いが積もり積もる快感。
前半のドタバタ劇もさることながら、後半の起きている状況自体が奇妙きてれつなものと化してしまうシュールな情景がやはり見事。百萬両の壷をめぐって起きる人間模様から、最終的には江戸じゅうに張られる「壷求ム」、壷を抱えた長蛇の列、積まれた無数の壷、という風景を生じさせることになる。
登場する誰もが思惑をことごとく裏切られてしまうが、それが次の展開に結びつき、人々は駆けずり回り、物を散らかし、嫉妬し、家出し、決闘する。「ま、負けてくれ」の身も蓋もないところも素敵。武士道の精神をこけにしている。
登場人物の台詞は想像以上にモダンな印象を受けた。この映画は1935年作だが、現在つくられる時代劇のほうがまだ「らしい」しゃべり方をするだろう。もちろん「らしい」から良いわけではない。人々のとがった台詞とは裏腹のほんわかとした画面が雄弁であり、その繰り返しがユーモラスな雰囲気を作り上げている。観客が「またあのパターンがくるぞ」と思っていると、期待どおりにそのパターンが現れる。そしてそれが嫌な感じではない。
男と女に加えて子供の存在がほどよい緩衝剤である(というか、子供がいるから男女の諍いが起きるといったほうが正しい。『赤ちゃん教育』のベイビーみたいなものか)。
で、壷は見つかる(というか最初から最後まで徹頭徹尾画面に現れているのだ)が、人々の思惑が収束した結果、なんともいい加減でおおらかな結末となる。この結末になぜだか私はほっとする。
最後の幕切れ場面は鮮烈。こんなに爽快なのはなかなかお目にかかれない。物語は落語を下敷きにしているらしいが、最後の投げやりな行為が見事な下げになってしまうような、そんな幕切れ。最後まですっとぼけたところが吉。

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『下りの船』 佐藤哲也 [小説]


下りの船 (想像力の文学)

下りの船 (想像力の文学)



「現状のジャンル分けに収まりきらない豊穣なイメージを展開する作家のレーベル」だという「想像力の文学」の第3回配本。
これはおそらく、ある地点まで極めてしまった恐るべき本に違いない。
無からひとつの世界を立ち上げ、さらにその世界を巨大な視点から微細な視点まで官能的なまでにダイナミックに移動させる手つきの鮮やかさ。しかもその視点といったら、あたかもこの世の人ならざる者が「観察」しているとしか思えないものなのだ。いうなれば異世界の者がその世界を観察し、描写し、報告しているかのようなーーもっと云えば、この世界に属さないものが便宜上この世界の言語を用いて世界の様相を語っているような、奇妙な感覚がここにはある。この世界の言葉を用いてはいるが、決してこの世界の内部からは描き得ない、どこかで決定的に拒絶された透明な壁があるような文章なのである。
冒頭の村から別世界へ辿り着くまでの圧倒的な俯瞰は、まるで川の源流で始まりの一滴から小さなせせらぎが集まって流れをなし、やがて大河となって下流へそそぎこむひとつの動きである。これを精緻で透徹された目で描き出す。この冒頭部はきわめて映像的で、そのひとつひとつの場面の展開は有機的につながっており、その展開がまるで容赦のないものであってこの上なく素晴らしく、正直いって読んでいて気持ちいい。
また陳腐な例だが、それは蟻の生態を観察している子供の視点のようである。ひとつのまとまりとしての蟻の群れを観察している。無数の個体の中からふと目に付いたものがある。それはとりたてて個性があるわけでも他とまるっきり違っているわけでもないのに、観察者にとっては妙に気になる個体であったのだろう。ついついその個体を目で追ってしまう。アヴはそういう風に発見される。目の隅で気にとめながらも全体の動きを当面は追っていく。そんな風でもある。
とはいえ俯瞰的視点ばかりでなく、もちろんひとつひとつの詳細な単位での動きも(相変わらず)丁寧に捉える。その丁寧さはいわば反復される何パターンかの動きを一つの要素あるいは概念として言語化するために必要な作業なのであり、それらの淡々とした積み重ねが大きなうねりを作り出す。
これに限らず、佐藤氏の本は往々にしてこのうねりにたっぷりと(ときにはいやというほど)身を委ねるのが楽しい。その代わり、その中身が意味するものは(その内部にいる者たちにとっては、だが)絶望的なまでに重苦しく、楽観を許さない。これは例えば子供が蟻の巣に水を流して遊ぶような意図的な苦難などではない。これは作者が作る物語という行為からは限りなく遠いものである。観察ありき、なのである。人々はわけもわからずある状況へ投げ込まれ、わけもわからず生きなければならない。おのれのはかり知れない状況にいつのまにやら入り込み、それが不本意なことであるのもはっきりとはわからずにいる。ただ、いるだけ。そしてその状況を知り、状況に対置したおのれを確立しようともがくが、それがその状況にとっては無関心であるために、何の役にも立たないか、最悪のそして当然の結果を招くことにもなる。そこには観察者の悲しみや虚しさなども垣間見えないこともないが、つきつめるとそれは、たまたま目にとまった個体に対する愛惜以上の何ものでもない。
この本は当たり前だが作り物である。しかし物語などでは全然ない。無から立ち上げた世界を観察しているだけである。否、観察することによって世界が立ち上がってくるという希有な事態が、読むことと同時に生み出されるのだ。もちろん観察しつつ立ち上がる世界、というのを作るのにはいかほどの胆力が要るものなのか、それこそ想像を絶する。その観察される世界は観察しているだけでは物語たりえないし、そこに物語を生み出そうとすれば必然的に嘘になる。そう、これは物語ではなく生起しつつある事態なのだ。事態に意味を付与しながら書くのは観察ではない。そしてその観察を読むこともまた、眼前に立ち上がってくる世界をーー事態をただ見ることしかできない。意味を付与しながら読むことにはあまり意味がないように思う。意味は溢れかえっており、つかみどころがない。蟻の内面がわからなくても蟻の生態をとらえることはできる。蟻はこういう場面でこのような行動をする。以上。蟻の気持ちはあってもなくてもかまわないが、結果このような行動しかしない。以上。登場人物の内面のようなものが描かれることもあるが、それは限りなく行動の把握と差異がない。だからこの本の記述が世界の内部からは描き得ないことは、初めから承知の上なのだ。
それにしても、このまったく感傷さのかけらもない事態に対して、私はなぜこんなに心動かされるのだろうか。読んだことのないもの、あるいは読んでみたいと思っていたが何を読みたいのかうまく言語化できなかったものを読めたこと。それ以上に本を読む理由が果たしてあるだろうか。
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